鉄をめぐる民俗

第43回 「タタラ製鉄の従事者」

近世から明治中期まで、中国地方はタタラ製鉄で全国の鉄の80%以上を生産していたといわれている。 鉄生産に従事していた者も多かった。
1つの鉄山で、鉄穴(カンナ)流し、タタラ吹き、鍛冶、炭焼きが1つの村をつくっていた。
岡山県鏡野町上斎原といが谷(豊ヶ谷)の山では、寛保2年(1742)の記録によると、鉄穴場4か所、鍛冶場3軒を持ち、山子が扶持人64人、日雇50人、それに山内専属の鉄穴師39人となっている。合計では153人になり、山小屋数は42軒である。
1つの鉄山で、これだけの人が動くのだから、山間に1つの村が生まれるわけだ。上斎原の場合、味噌、醤油、米などの食料は津山から仕入れていたという。
タタラ製鉄は、山間の村々にとっては重要な産業であり、地域に大きな影響を持っていたであろう。

(立石 憲利)


前の記事へ次の記事へ

ページ上部へ戻る