現代日本刀の歩み ― 戦後篇 ―

第1篇 「現代刀」の定義についての再検討
新々刀・現代刀の独自性

 延宝(1673~81)から元禄(1688~1704)を最盛期とする華麗な新刀の作風は、その後、一種の反省もあって低迷した。また、復古思想の影響は鍛刀界にも及び、山形・秋元家の藩工川部儀八郎正秀(水心子)が復古刀を主唱すると、たちまち一世を風靡(ふうび)するに至った。これが新々刀である。詳細は省くが、新々刀は時代的に新刀と一線を画すばかりでなく、内容においても相応の独自性を持っている。
 水心子の説く復古刀とは、武用に基づく鍛刀の革新である。折れ難く、曲がり難きを旨とした古刀の鍛法は応永以降次第に廃れ、新刀に至ると一変してしまった、それゆえ、武用を第一として古法に帰るべし、とするものである。彼の晩年、小模様の作品をもっぱらとするのは、以前の大坂新刀写しを自ら否定して復古刀を実践した結果とみられる。
 文政4年(1821)門弟の古山弘元に与えたという『剣工秘伝誌』は、水心子の考える復古鍛法の集大成である。
 作刀論上、現代刀は水心子正秀の亜流にすぎないのではないかとの主張が根強い。それは、現代刀匠の系流が直接・間接に新々刀の始祖水心子に結ばれること、水心子をさかのぼる鍛法の詳説はほとんどなく(わずかに新刀中期の貞享元年<1684>、大村加卜(kかぼく)が『剣刀秘宝』を著している)、水心子の諸書の説く鍛法が現代のそれにほぼ一致することなどを根拠としている。
 現代刀を論じるに当たって、現代刀が前代の作品と実質を異にすることは前提でなければならない。仮に現代刀が新々刀の亜流なら、あえて論じる必然性は失われてしまう。私はその内容において、また社会的・経済的条件において、現代刀が現代刀たり得る特質を備えていると確信する。
 先に、あえて新刀の定義に紙数を費やしたのは、これから現代刀の枠組みをともに考えていくヒントがここにあるのではないかと思ったからである


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