現代日本刀の歩み ― 戦後篇 ―

第1篇 「現代刀」の定義についての再検討
時代区分の合理性

 以上の大別には、何らかの理由があってしかるべきである。
 新刀と新々刀、新々刀と現代刀には、明らかに製作の間断がある。新刀は江戸時代中期の享保(1716~36)ごろ、将軍吉宗の鍛刀奨励策などもあって一時的に復興の兆しは見たが、以後全く振るわない。
 ようやく再開の気運が生まれるのは、水心子正秀の登場によってであるが、その少し前、享保6年(1721)に神田白龍子が『新刃銘尽(あらみめいつくし)』を著し、安永8年(1779)鎌田魚妙(なたえ)が『新刀弁疑』を出版していることは注目される。前著において、「古作」に対する「新作」の概念が出現し、「慶長以来」の鍛冶が取り上げられる。また、「堀川国広、肥前ノ忠吉、及武陽ノ繁慶、虎徹ノ類実ニ当世ノ名剣也」と評価する視点も明瞭である。そして、後著で「新刀」の名称が登場する。
 新々刀が明治の「廃刀令」によって終焉(しゅうえん)を迎えたことは、論を待たない。それからが現代刀であり、時間軸で見れば、既に新々刀期を上回っていることになる。
 しかし、ご承知のように、明治・大正期に作られた刀はきわめて少ない。栗原彦三郎は「無作刀時代」と記しているが、事実、この期はそれに近い状態であった。大正7年(1918)に月山貞一が84歳で、同9年、羽山円真が75歳で、同15年、宮本包則が97歳で亡くなると、新々刀期の刀工はほぼ絶えた。明治・大正期は事実上、新々刀の直接の影響下にあり、現代刀が独自の足跡を残すようになるのは昭和以降である。
 その辺りの事情に立ち入る前に、新刀の定義に触れておこう。


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