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第2篇 民間武器回収命令

 『薫山刀話』では「向こうとの刀の談判が順調に進んで、日本側に美術刀剣の審査が任されるようになった段階のとき」というから、昭和21年5月14日以降のことである。本間氏が宮家を訪ね、「おかげで希望通りになりました。ときにこれは刀剣史上に残したいと存じますから、GHQの誰に何とおっしゃってくださったのかをお聞かせ願いたい」と言ったら、「僕はあのことは近衛に全部任せてあったのだから、何も知らないとのことでした。」
 続けて、「そのときはもう近衛さんは自殺してしまわれたので、直接お聞きするわけにはまいりません。その後、方々で打診してみましたが、結局は近衛さんがGHQの誰かに陳情してくださったと思われてなりません。あるいは、マッカーサー元帥に直接話してくださっているのかもしれませんね。」と述べ、日本刀の救済が近衛文麿の尽力によってもたらされたとの心証を伝えている。
 近衛文麿は藤原北家の嫡流であり五摂家の一つである近衛家に生まれ、若くから貴族院議員として活躍、昭和12年6月から16年10月まで3次にわたって内閣を組織した。国民の大きな期待を担っての総理であったが、就任間もなく蘆溝橋事件が勃発、これが中国に対する全面戦争に発展し、「国民政府を相手にせず」という近衛声明を発するに至って、戦争解決を自ら閉ざしてしまった。またファシズム体制を推進したとも言われ、日中戦争に続いて日米関係の行き詰まりをもたらし、これを打開し得ずに辞職、東条英機内閣に代わった。
 近衛の短い戦後については後にも触れるが、荻窪の本邸荻外荘(てきがいそう)で亡くなったのは20年12月16日早暁である。連合国軍総司令部から逮捕令が出ており、この日が収容の期限になっていた。実は前日夕刻までの4日間、近衛は桜新町の長尾邸に滞在していて、ここを最後の場所としたかったらしい。遺体の枕元には「わかもと」と「ヱビオス」の容器とともに、米軍が持ち去った褐色の小瓶があったというが、これは米子の持ち物だったとの話である。