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第1篇 「現代刀」の定義についての再検討
内容から見た新刀の定義
これについては、『日本刀大鑑・新刀篇1』の「新刀総論」が参考になる。佐藤貫一氏の執筆と推測される一文である。
 文中、古刀と新刀の年代の線引きは必ずしも厳密ではなく、慶長以前の年紀ある作を古刀、以後のものを新刀と区別することも真を得ていない、結局はその刀工の活躍がどちらの時代に重きを置くかによって、一方を末古刀、他を新刀と称するのが常識である、としながら、しかし、古刀と新刀との区画は、日本刀の研究上きわめて意義のあることと記している。
 そして、古刀と新刀との相違を次の諸点に求める。

① 製作地が異なっているものが多い。
② 本質的に素材が異なる。
③ 鍛錬の方法が相違する。
④ 戦闘法の変遷、剣術の発達などに伴って、刀剣の姿や形をはじめとして様式論的にも大きな変化があり、製作意欲にも自然相違が生じた。
⑤ 時代の風尚と帯用形式が相違する。

 すなわち、製作地・材料・鍛法といった第一義的の要素に、様式・風俗・流行などの第二義的のものを合わせて、新刀の本質的相違点を明らかにしようとしているのである。
 古刀期の製作地は、五カ伝を生んだ国とその影響が及んだ地区、および特定の地域である。これらが刀剣の製作地として発展した理由は、強力な社寺や豪族があって、刀鍛冶はそれらに隷属していたことと、良質の鉄が入手できたことである。
 ところが、織豊政権および徳川幕府の治下において、二つの条件は一変した。織田信長は二百年来の戦国時代にほぼ終止符を打ち、豊臣秀吉はその志を継いで天下一統の実を上げ、諸国に大名を配して経営に当たらせた。大名たちはその封地に新たに城を築き、城下町の形成を進めたから、たちまち新興の都市が台頭した。これらの都市には、藩の抱え工をはじめとして諸国からさまざまな職人が集まって、繁栄を見るに至ったのである。
 新興の城下町には束縛される因習もなく、自由で、進取の気風と活気がみなぎっていた。それは新刀の精神性そのものでもある。
 古刀期の素材は、それぞれの地方で得られる砂鉄を原料としたもので、遠方から鉄を移入することはまれであったとされる。従って地方色が盛られるところとなり、地鉄による鑑定も可能としてきたのである。ところが新刀期になると、流通の発達によって、産鉄に地縁のない城下町であっても作刀に支障はなくなっている。
 応永(1394~1428)のころから中国地方では大型鑪(たたら)が操業されていたとの記述もあるから、新刀期には鋼の量産が行われて広く供給され、地方色も失われていったのであろう。別に、南蛮鉄が輸入されているのも、この時代の特色である。
 素材が変われば、鍛法も変化して当然である。戦乱の時代に要求されたのは武器の量産であり、日本刀も粗製乱造が行われた。やがて平和の時代が訪れると質が問われ、鎌倉・南北朝期に範を取りつつ、新たな作風を追究するところとなった。それを支えたのが、新素材と新鍛錬法である。四方詰めや本三枚がこの期に始まったものかどうか明らかにしないが、古刀以上に精緻な方法が確かな技能によって踏襲されたことは間違いない。
 鉄砲の伝来、槍の流行、剣術の発達などの要因で戦闘法が変化すると、影響は直接、日本刀にも及んだ。反りの高い太刀から、両手で使用する反りの浅い打刀に移り、古来の太刀は磨り上げられて打刀に改められた。この大磨り上げの刀姿が、新刀の基本形である。
 さらに江戸時代になると、古伝にとらわれることなく、独自の作風を形成していった。泰平の世の風潮は、長曾禰虎徹の数珠刃(じゅずば)、津田越前守助広の濤瀾刃(とうらんば)、丹波守吉道一派の簾刃(すだれば)など、古刀期には見られなかった華麗な焼刃をも生み出すのである。