昭和45年 高知県安芸市 鍛工十四代川島正秀の長男として生
平成元年 高知県立安芸高等学校卒業
岐阜県関市 中田正直師に師事
6年 美術刀剣製作認可
7年6月 北海道礼文島 日本最北端の牧場、道場乳業で命の洗濯
7年11月 無鑑査刀匠 吉原國家刀匠ついて備前伝を勉強
8年 備前長船博物館鍛刀場にて独立
新作刀展覧会初出品入選
15年 長船町に川島正城日本刀鍛錬場
17年 努力賞

備前伝一文字を目標とし 華麗な重花丁子に挑戦!!



火花を見て育つ!!-父と私―

鍛冶屋の息子に生まれた私は幼少の頃より、鉄の塊が火花を飛ばしながら造形される様を息を呑んで見つめていた。父は火箸を握り、金鎚を大きく振りかぶる。ぎゅっと奥歯を噛んで仕事をする父の顎は四角になり、口を覗くと、奥歯は磨り減り、平らになっていた。その当時、王選手が、毎日一振り一振り渾身の力を込めて、長時間にわたって素振りの練習をしていたため、奥歯がボロボロになっていたことを知り、私は父と王選手が重なって見えたものだ。

 小学生の僕に、父は、よく下校時間を尋ねた。私に向う槌をさせるため、それまでの仕事の段取りを決めるためだった。学校からまっすぐに帰宅し、よく向う槌をした。真剣にしていても、はずしてしまうこともあった。そんな時は容赦なくしばかれた。仕事が終わると、父の酒の燗をさせられた。土佐の男の例にもれることなく酒をこよなく愛する父は、私に肴をよく作らせた。魚をさばくこともこの頃身につけた。卵焼きを失敗して鉄のヘラでなぐられたこともあった。


自分にも息子にも厳しかった父。そのような環境で、幼少の頃から、薄暗い鍛冶場で、父が打ち出す火花と気迫、鉄と父との激しいやりとりに心がすいよせられていた。真っ赤な鉄は鍛錬され、焼きを入れられ、研磨され、白く鋭く光る刃物に姿を変えていく。それはまさに、日本刀の輝きだった。出来上がった父の製品を見て「僕は刀でこの世界を表現したい」と、強く思った。


そして今、刀と向き合っていると、時々、何かにつき動かされているような気がする。それは、僕を支えてくれる見えない全てなのであり、亡き父なのだろう。